カフェー・ヴァルゴのスピカ

 青年は小さな円卓に唯一のせられた硝子の灰皿を撫でてみた。呼び鈴を鳴らせばせかせかと女給が顔を出す。
 オークだかマホガニーだか、兎に角レトロなほの暗さに、ぱたりと押し退けるだけの木彫りの扉が揺れていた。その奥には洋酒瓶の並ぶ通路があり、さらにその先に最先端の軽い防音扉があるのだが、そのことは頭の片隅にちらりと浮かぶ程度であまり気にはならなかった。
 銀座の地下階に位置し、一見様お断りかつ会員制のこの店は、本来なら青年の手取りで敷居を跨げる場所ではない。けれども、何の因果か彼は言いつけで此処にいた。上役が常連だったのだ。正直、青年はその辺りのことなど端から利用するつもりもなかったのだが、よりあからさまな店でないだけましだと思うことにした。
 内輪ありきの悪ノリは、時代錯誤と叫ばれながらも今なお提供され続けている。しかし青年は行政にも法律にも、ましてやこういった業界の実態にも明るくはなく、この「カフェー・ヴァルゴ」がどの業態に当たっているのかわからない。長居をするにはどうにも向いていなさそうなスツールに、革などは勿論はってもいなかった。ただ防犯扉とは反対の奥に、隠しきる気のないこれまた見たところ重厚な隠し扉があったため、通常の客はそちらに長居をするのだろう。彼は小さく溜め息を吐いた。煙草がなければ経過する時間をやり過ごすことができないといった質でもないが、遊び慣れてもいなければ、どっしりと構えていられるほど歳を重ねたわけでもない。ないない尽くしで直ぐにまた溜め息が漏れていく。
 暫くして、注文していたブリュレと珈琲を運んできたのは先ほどとは異なる女給だった。青年はその顔を見上げてぎょっとする。
 彼女の顔立ちは、全く温室育ちのそれだった。
 完全な富裕か貧困か。今や二極化の加速するAI時代、疾うに職の自由も形骸化している。例え上流の娘が興味を持っても先ずはオーナーが頷かない。立体映像で説明の足りるような仕事なら、文字による思考は寧ろ扱いづらさの象徴だ。青年はどこかの社長から聞いた話を頭の中で反芻し、受け皿を少し引き寄せた。
 女給はただ伏し目がちに黙っている。整った面差しが事務的に客の様子を窺うと、こうも冷たく感じるものかと青年は半ば感心した。
「先ほどの女給と私でしたらどちらの方がお好みでしょう」
 店側としてはなるほど指名が欲しいのか、媚びるでもない単調な言葉にカップへと伸びかけていた手が止まった。
「君で」
 青年がそう応じてみると彼女は表情のないまま礼を言う。縹の八掛が両手首を繋いで裏の静脈を思わせた。
 齢は二十歳そこそこといったところか。はじめの女給が着物も化粧も派手だったことに比べると、彼女のその装いは何処をとっても地味だった。しかし部屋とはよく馴染み、生来の面立ちとも相まって申し分ない。目の周りを彩るパールがない分自然とそこに翳が落ちる。
「緊張されていらっしゃる」
 積極的に口説きもせず、黙りな若い男をうぶと見たのか彼女は隠し扉をちらと見た。
「ああ、いや……今日は上役の計らいでね」
 青年は率直な溜め息とともに訳を明かす。
 その言葉に女給は少し肩の力を抜いたようだった。元々張りつめているようでもなかったが、比して空気が和らいでいた。
 それからブリュレが空になるまでどちらも漫然とその場にいた。青年には程よい無関心だった。半分程度まで減った珈琲には彼女が追加でブランデー垂らした。
 その日のお代を彼は見ることもなかったが、後に女給は会話の語数にゼロを並べたくらいだったとぼやかした。

 カフェー・ヴァルゴでのひとときはそれっきりかというとそうでもなく、理由は青年が店を気に入ったからというより上役が納得しなかったところに因る。
 生活習慣の一部にこの寄り道が組み込まれておおよそふた月が経ち、それまでは初めの日の如くあてがわれた女給をひとつめの部屋の隅に立たせていただけの彼だったが、何の拍子か件の女給を指名した。またその彼女も、この日は身体が空いていた。
「忙しくはなかった」
 やはり目の前の彼女だけは他の女給と面立ちが違うと思いつつ、青年は指名が通ったことを少々以外に感じていた。女給はそれをどう受け取ろうか悩んだような顔をする。
「君は器量も良いし、指名に応じる暇なんてないものかと」
 それは本当にお世辞などではなかった。
「そういうことなら、私は同僚の間でも暇なほうですよ」
 青年がまさかと呟くと、彼女は口元に小さく笑みを浮かべて首を振る。その仕草は確かに思わせぶりなのだが、当人と輪郭が一致しており玄人らしさには欠けていた。それは素人くささともまた違う。学年一の高嶺の花と不意に目があったような、さらにはその人がこちらに気がついて微笑んだような、金銭と欲との関係からはどこか遠い錯覚を呼び寄せる。
 しかし青年はその淡い錯覚を他人事のように切り離した。彼が彼女に向ける興味は彼自身とは関わらない部分にそれは大きく偏っていた。
「君、碁は打てるの」
 以前部屋の隅に立つだけの時間にしびれを切らして提案した女給がいたことを思いだし、青年は部屋を見回した。そのときは結局打つこともなかったが、何処かに空間パネルを呼び出す端末が内蔵されているのだろう。少しなら、と頷いた女給は部屋のの木の戸を押し開けると、その直ぐ先で屈みこむ。結わいた頭が見えなくなり、やけにがたごとと音がした。
 そうしてまた扉の向こうに頭が見え、背中から戸を押して戻ってきたかと思うと、彼女の両腕には碁盤と将棋盤とチェス盤に加え花札とトランプがのっていた。
 これには青年も笑うしかなかった。彼女の足取りは依然おっとりとした間を保ち、前のめりに客を掴もうという気が見えない。その狙ってやった風でもないようなところが余計彼には可笑しかった。
 肝心な実力の方はというと、青年より少し弱い程度のものだった。つまるところ、客を楽しませつつ矜持をくすぐるには十分な腕を持っていた。あれだけの遊具を抱えてやってきた様子から、恐らくは他の遊技についても同じだけの知識と経験があるのだろう。彼は碁の勝負を三回で切り上げた帰り道、次は何の相手をしてもらおうかと思案する自分に目を見張った。

 翌週のこと、先日はまさかその華奢な腕であれだけのものを持てるとは思わなかったと、将棋盤ひとつでも折れそうな手首を認めながら、青年は駒の詰まった木箱を取り上げる。
 一枚一枚駒を並べる女給の手つきは柔らかく、けれども文字の書かれた表と裏とを親指と人差し指との二本で挟むので時々きちんと前を向かないやつがいた。ぞんざいというより大らかな優しい所作だったが、青年はそれらを律儀に直していく。
 こういった遊技を彼女たちの多くは客か、或いは店のオーナーあたりから習うのだろうが、彼女ひとりに限ってはやはり家庭か教育のどこかの過程で覚えたというような雰囲気がある。
 角道を開け、つつがなく始まったように思われたその一戦は、しかし青年の理解を大きく外れていた。
 投了したのは彼女だった。一手を打ちつ打たれつする半ばから、盤面と彼女の顔とを交互に凝視していた彼の目線はまた盤面に戻って沈黙する。
 実力は彼女が上だった。それでただ手加減されたというのならここまで驚くこともない。彼女は常に、青年が勝ち筋を選びかねて悩むであろう手を打った。別の言葉でいうのなら、それなら次の手はこれしかない、と思わせる手を彼女は一度も打たなかった。そのようであればこそ、彼にとってこの勝負自体は面白く、寧ろ過ぎて気が散るほどだったのだ。
 青年の脳裏に、いかにも厳格そうな祖父の相手をする女給の姿が鮮やかに浮かんだ。そうして、彼の中でそれは殆ど確固たるものとなった。
 青年は自分でも気づかないうちにぽそりと胸中を漏らしていた。それを女給が拾って渡し返す。
「そうは言いますけれど私、今お手紙の返事が書けなくて困っているんですよ」
「……は」
 何を言ったか思いだそうにも上の空の時間は戻らず、ただ彼女の像にひびが入る。
「……君は、文字を扱える人かと」
 その言葉に彼女は、きゅっと目尻に皺を寄せた。
「実のところ、ただそうなりたいだけなんです」
「でも、」
 演技というのは大概どこかで襤褸が出る。彼女は青年の目から見て、完全に自然体だった。
「このお店に収まりきるぶんだけは、ひとりで何とか覚えたのですけれど」
 青年は本当に信じられない思いで口を噤む。
「高校へも行ってはいませんから資格をとるのも大変なのですが、こうして働いて、いずれは大学に行きたくて」
「それで……何を学ぶの」
 まだ考え中だという女給のまつげが嬉しそうに震えた。拝啓の二文字から始まる文面がまるで花園のようだったのだと語りながら、他方重要な内容はというと、端末に読み上げさせても半分は理解ができなかったと途切れ途切れに白状する。それでも無暗に縮こまった様子の見えないところが余計に彼女を聡明に見せるのだから不思議だった。
「……文学なんかもいいかもね」
 青年は彼女が紙の本を紐解いている様子を容易く想像することができた。令和から明治と遡り、候文くらいであれば難なく読み書きができるようになるのだろう。
 しかし彼女は首を傾げ、困ったように微笑んだ。
「面白そうだとは思うのですけれど、今回の件で文学が人生の役に立つことはわかったので、何でしょう、もっと何の役に立つのかもわからないものを学んでみたいです」
 カフェー・ヴァルゴのスピカ。後にそう呼ばれ語り草となる予定の女給は、絶句する彼の目の前から席を外した。